正直になれない、

雑記メイン、トキドキ読書録

過敏という解決しない悩み

 

  • 子どもの話し声
  • キーボードの打刻音
  • いびき
  • 鼻をすする音
  • 図書館のコソコソ声
  • 隣の咀嚼音

挙げればキリがないほどの不快と感じる音。

しかも、一度耳にとまれば、ずっと止まり続ける音。

生きていてなんのメリットもないこの特性を早く手放したいと思っています。

過敏な世界で生きているとストレスも高まりやすくなり、イライラも溜まります。


また、この特性がやっかいなのは、人に話しても理解されないこと。

「そんなのみんな感じてるよ」「おまえはそれを改善するために努力はしているのか」などと言われるのがオチ。

私はそのためにいつも耳栓は持ち歩いて音を遮断することに努めてる。でも、一回聞いてしまった不快な音は、耳栓で埋まった耳の中を通じてかすかに聞こえてしまう。無意識に音を聞きとろうとしてしまって、ストレスがかかってしまうのです。

 

本当に生きるのがめんどくさいと思います。他人を注意しても他人を不快な思いにさせるだけだし、そんな過敏すぎる自分に嫌悪しか感じられなくなります。

 

こんな症状、どうしたら良いのでしょうか。私には解決策が浮かびません。

これから社会人なわけだけど

 

早いもので、もう社会人。

就活中は、「あの会社の人事クソだ」「リクルートは学生にも企業にも媚びを売る悪魔だ」「建前じゃなくて本音で喋らせろ」なんて悶々とした気持ちで過ごしていたけど、もう就職先も決まって社会人ですよ。

はぁ〜早い。

 

で、思ったんだけど、ブログ名どうしよう。

もう社会人だから大学生って名乗るは卑怯ですよね笑

個人的には、このままいきたいんだけど…。

 

『正直になれない社会人ブログ』?

『正直になれないまま社会へ進む人』?

『Not to be honest』?(英語これで合ってるのか…w)

 

うーん、なーんかしっくりこない。

絶対『正直になれない』は入れたいんだ。


まあ、しばらくはこれでいきます。

「おめえ、学生じゃねえじゃん!」とか言われそうだけど、また学生に戻るかもしれないし…苦笑


てことでこれから不定期だけど、『正直になれなかった大学生ブログ』『正直になれない大学生ブログ』で投稿していきますので、よろしくお願いします!

また、(少ないけど)読んでくれてる方、またスターをつけてくれている慈悲深い方々、いつもありがとうございます!

「正直になれない」とはどういうことか

生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害(朝日新書) 岡田尊司(著)

 

  「正直になれない」。これは主体的な「選択」への恐れである。

 「回避性パーソナリティ」という言葉を聞いたことがあるだろうか。本書に沿って概説すると、対人関係で傷つきやすく拒否や否定にとても過敏であるため傷つくことを嫌がり、初めから人間関係を避ける障害のことだ。「めんどくさい」と言って行動するのを避け、また、一見なんでも自分一人でこなし、クールで落ち着いているように見えるのは、人間関係におけるストレスを回避するための行動である。たとえ行動したとしても、常にハードルを下げて自分が受けるダメージや恥を最小限に抑えようとする。この障害は遺伝要因と環境要因が影響しており、現代においてこの症状が見られる人が増加している様子から環境要因が重視される。最初から他人の親切や愛情など期待せず、裏切られないようにする回避的な生き方は、特に近年の「個人化」する社会に対しての適応として表れ始めているとの見方もある。特に環境要因として影響するのが、幼少期の育ち方だ。親に放任され否定された子どもはもちろんのこと、過保護に育てられた(別の言い方をするなら、「選択」することを強制された)子どもたちも、「私」の意図を汲み取ってくれないと感じ、最初から何も求めないという思考へ変わっていく。こうなると「めんどくさい」、「怖くて自分をさらけ出せない」という性格が形成されていく。

 私は本文に出てくる事例と、「怖くて自分をさらけ出せない」という言葉に共感を覚えた。例えば、懇親会のお知らせが来たときに、参加してみんなと仲良くなりたいとは思っているが、そこでうまく立ち回っている様子を想像できないため、参加を拒絶する。そして、その想像は過去に挑戦してうまくいかなった失敗経験と相まって強く私を縛るようになった。よく思い出してみると、私の親も過保護なところがあった。こちらが助けてほしくもないことにやたら首を突っ込まれることの嫌気がさし、本当のところは私のことをよく理解できていないのではないかと感じることもしばしばあった。それは人間一般に広がり、だいたいの人間は自分を理解してくれず、他人に求めても裏切られるだけではないのかという不安が形成されていったのかもしれないと思う。私は「正直になれない」ことへの解決策を大学4年間の中で模索していた。そして、1つ確実なことを見つけた。それは「道を選ぶための手段を教えてくれる案内人を見け、その人に補助をしてもらうこと」だ。それは責任逃れのように見えるがそうではない。ある程度、その人の元で修業をし、ある程度自分で「選択」できそうになったら主体的に道を歩んでみるということである。私にとってこの修行は知識の吸収だった。ひたらすら本を読みまとめ、教授の元でひたすら添削を繰り返すことだった。そして、今では自分の持つ武器を考えて行動できるようになってきた。そして、それによって視野がほんの少し広がり他者を受け入れる姿勢の土台が出来上がった。他人を見下す癖が治ったのもそういうことがきっかけなのかもしれない。

 一方、著者は「回避性」を改善する方法として、些細なことで良いから何かを主体的に「選択」してみることを提案している。そして、これを行うには「安全基地」というものが必要になる。これは本音を話したり安心できる場所のことだ。回避性の人は助けを求めることをやめて自分の殻に閉じこもり、最終的には引きこもりという形になってしまうことが多い。それを改善するためにいつでも手を差し伸べ、本音をさらけ出せる安全基地をつくることが大事なのである。それは本来、親が担うべき役割だが、難しい場合には本書のようにカウンセラーにその役割をお願いしても良い。

 本書を読んで、私は安全基地に案内人という要素を加えてもよいのではないかと考えた。たしかに、なにかを選り抜くために安心できる場所が必要なのはもっともであるが、「選択」する技術というのも必要だと感じる。私は大学で学び、とにかく知識を得ようと努力しながらも、その方向性を教授に指導してもらいながら進んできた。そして、ようやく主体的になれる技術としての土台ができあがってきた。
 多様性に溢れる社会でなにかを選びとるの作業はきついものだ。もし目の前にある「選択」を間違ったらと思うと常に不安がつきまとう。特に技術や安全基地のない者にとって目の前に映る世界は、常人よりもハードルが高く、苦しいものにしか見えないだろうと思う。しかし、この安全基地を得たり、案内人を見つけることができれば、少し、ほんの一歩かもしれないが、先へ進んでみようという意思が生まれるだろう。そして、その一歩がさらに大きな一歩へ繋がるはずだ。

 

印象に残った言葉

「回避性が強まっている人は(中略)同年代の若者とすれ違いそうになると、わざわざ迂回して遭遇を避けようしたりする」

 

造形の基本学

美の構成学―バウハウスからフラクタルまで (中公新書) 三井 秀樹 (著)

 

 デザインセンスは、どこか曖昧な感じがして、持っている人は持っているがそうでない人はこの先も磨けないというような印象が私にはつきまとっていた。しかし、本書で説明される構成学はそれを覆してくれる学問である。


 そもそも構成学とは、「造形に共通する形体・色彩・材料に関するそれぞれの特性を明らか」にして体系化し、それを実際の造形に活かすものである。これをしっかりと学んで身につければ、誰でもデザインセンスを磨けるというわけである。


 この学問の基礎は、1919年に設立されたバウハウスというデザイン教育機関に端を発する。18世紀の産業革命から画一化された大量生産に対して建築家などは、製品の規格化と芸術性の選択を迫られていたが、規格化が進む社会を是認しながら芸術性を追求する理念が出現した。この理念をあらゆるデザイナーが共有できるように学問として体系化される必要があった。そんな時代背景の中、誕生したのがバウハウスだった。この学校では、「誰でも造形能力をもっているという前提に立って教育指導」を行い、それまでの芸術の才能は天賦のものであるという美術学校の方針とは決定的に違っていた。バウハウスの教育は具体的な描写教育ではなく、例えば、「造形に対して正しい視野から物を見る造形能力や観察能力を養う」ために、さまざまな材料やテクスチャ、形体・色彩の分析などを進め、造形の性質を追求した。これらの造形分析は、自然などの不定形なものに対して、なされてこなかったが、フラクタル理論の証明によって進められるようになった。フラクタル理論とは、小石や田んぼのひび割れなどの、一見規則性のない形、パターンや現象が、簡単な仕組みで成り立っているとするものであり、これが数式でコンピュータ・グラフィックスによって表現できることが証明された。


 ここまで見てきたように、バウハウスの教育を元にした、あらゆる造形要素を分解して分析する学問が構成学である。そして、そこで明らかになったことを活かして人間が心地よいと感じる造形を再現していくことが可能になる。「美」とはどこか直感的なイメージがつきまとうが、これを科学的方法に沿って表現できるのが驚きだ。著者が「構成教育は万人向けであり、誰でもデザイナーになれる資格を持っている」と断言する所以である。

 

美の構成学―バウハウスからフラクタルまで (中公新書)

美の構成学―バウハウスからフラクタルまで (中公新書)

共感しやすい時代だからこそ

さっき日記を書いてて思ったのですが、公開日記って自己顕示欲が凝縮されたツールです。

だって、考えて見てくださいよ。有名人でもない人が日記を投稿して誰が見たいんですか。日記の有用性って一部の人が分析に使うくらいじゃないですか(どうだろうね)。

でもね、そういった生産性がなくて、どうでもいいものでも、誰かが共感したくて見にくるものなんです。


例えばね、電車でドアの両側を塞いで迷惑な乗客が居たとしましょう。その乗客に迷惑被った人はツイッターで検索をかけるんですよ。同じように思っている人がいないかね。

そうして、出てくるのが、

「電車乗ってたら邪魔な奴おる、一回出てよ迷惑だから」

「あれってなんのためにやっているの、自己中も甚だしい」

なんていう呟き。

 

他にも図書館なんかでカップルがいちゃついてることに腹を立て検索すると、

「目線に入ってくんなよ、ここは勉強するところだぞ」

「キスすんな! ラブホでやれ!」

みたいなツイートが出てくる出てくる。

 

こういったように、自分が「共感したい」と思ったことをどこかに求めるんです。
こういった行動は別にツイッターだけに留まりません。私が書いている日記にも同じことが言えます。しかも、ツイッターよりも日記の方が分量も多く、さらには内容が濃いことが多いんです。内容が濃ければそれだけ共感した時に快感も上がりますからいいですね。

同じ大学生でバイトも同じようなことをしていて、歳も近くて、境遇も同じような人を見つけて嬉しくなってね。

で、その人にパートナーが居たりしてしてね。今までの共感が全部憎悪に変わりなんかしてね。

 
(だから)生産性がないと言われようと好きに書けばいいんです。好きなように。

 

さ、これで日記を心置きなく書ける。

 

 

p.s.さっき投稿したのは日記じゃない。ありゃポエムだ。

全てが終わり…


卒論が終わり、卒業を残すだけになった。

あれだけ苦しんでいた卒論も終われば早いもの。
大きい課題がなくなった後の喪失感は大きい。

今、やることがあまりなくなってしまい、逆に疲れてしまっている。
燃え尽き症候群なんて言葉頭をかすめた。燃え尽き症候群なんて言葉なんて聞いたのはいつ以来だろうか。

 

さて、この先あと2ヶ月程度しか学生でいられないのは少しもの悲しいがやれることはやらなければならない。正直「やるべきこと」なんて作り出さなければ、一日中ゲームでもやって過ごせるのだけれど、それじゃ何かもったいない。
習い事始めるには少し時間が足りない気もするけど、今通っているジムを続けながら何か考えよう。デザインとかもいいかな。

 

世間の卒業を間近にした大学生は何を考えているのだろうか。

今年の膿、学生の膿、平成の膿

毎年一度やってくる新年の直前。
あなたはどう過ごしていますか。
 
いつもはどう過ごすのかなんて気にしないで、自由気ままに新年を迎えていました。
けど、今年はなんだかモヤモヤしたまま今日を過ごしています。
 
それは大学生活を振り返って色々思うからです。
 
 
 
「大学生は意識して生活しないと、あっという間に時が過ぎていきますよ」
これは、大学生活が始まって最初のセミナーの先生が私たち1年生に向かって言い放った言葉です。
 
ですが、私の大学生活はとにかく自堕落でした。
大学に慣れるという言い訳をしながら、ただ流されるままに生きていました。
 
友達はとりあえず、近場の人となって積極的に絡むことはせず、サークルも先輩たちが積極的に話しかけてくる場所に留まっていました。要は廃サー寸前のサークルに。そして、そのままあっという間に1年が過ぎていきました。
 
2年になっても同様でほとんど1年と変わらない生活を送っていました。
私にとって大学は「レジャーランド」とすら呼べないほど退屈なものに。
 
1年の時にセミナーの先生に言われた一言が身にしみています。
 
 
 
3年になるとゼミに入り、少しだけ状況が好転していきました。日々の課題や最終目標である論文という明確な課題が目の前に見えてきたからだと思っています。
ですが、やはり根っからの自堕落な私が顔を出して邪魔をしていました。
 
4年になり、卒論が目に見えてきました。
やることや手順は3年の時と同じでしたが、もっとがんばりたいという思いが3年のときは意欲を異にしていました。
 
ですが、ふと振り返る時に悲しくなるんです。大学生活ってこれでいいんだっけ、と。確かに大学生活は人それぞれ違い、それぞれがそれぞれの目標に向かっていけばいい、勉強だけでもしっかりやったならいいじゃないか、と言う人がいる。
でも、私の心の奥底では「友達と合宿」「彼女と温泉デート」「クリスマスパーティ」など大学生活のテンプレが私の頭をよぎってしまうのです。
 
 
今年の終わりは、いつもどおりの年末ではありません。来年からは大学を卒業して社会人です。加えて、年号が変わる時代の節目です。
こんな区切りの年だと気づくと、途端にこれまでの生活を振り返って悲しくなるのです。来年の豊富など書く気も起こりません。
自分で期限を設け、目標に向かって意欲的に取り組むような姿勢を取れなかった自分の責任を重く受け止めています。

 

 
久しぶりに何か記事を書こうと思ったら上のような暗い内容しか出てこなくて、さらに悲しくなりました笑
でも、自己顕示欲が抑えられなくてそのまま載せてしました汗
 
 
さて、今年はブログをはてなブログからワードプレスに移行し(移行とは言えないけど)、ネット検索でのヒット率を上げようと思っていました。
ですが結局その後、新しい記事をあげることはありませんでした。
前のブログの方が検索で引っかかってしまうありさまです汗
 
何か書きたいとは思っても意欲が出てこないというか、書いていても面白くないというか、ブログの改造がめんどくさいというか…。そう! めんどくさい!
 
なぜ、はてなブログからワードプレスに移行したんだろう。検索に引っかかりやすいという言葉にまんまと乗せられてしまった。
「みんなに見てもらいたい」という思いが強く、やっぱり人一倍、承認欲求が強いんだろうな〜と思います。現実で満たされないから。
 
ひとまず卒論が終わり次第、週に一冊本の書評を書き上げていた昔を思い出して来年は頑張って行きたい。そう思う所存です。
でないと、何のためにワードプレスにしたんだか苦笑
 
 
てなわけで、来年もよいお年を!
あと、数時間だけど!