正直になれなかった大学生

普通のことを普通につらつら書いていく。そんなブログ。

ブログ移転の件について

唐突なタイトルですが…

 

ブログ移転できませんでした汗

移転しようとしたんですけどURLやらなんやらの仕組みがよく分りませんでした(ほんとひどい)。

 

そのため、移転ということではなく、新たにブログをワードプレスで作り、こちらを旧ブログとして残すことにしました。

なので、こちらでの更新はなくなります。よろしくお願い致します。

 

新ブログ

tyatu.net

 

はてなブログをやめた理由

はてなブログの良いところって「はてなスター」ですよね。読んだら読んだことを知らせることができるし、それをきっかけにコミュニケーションが生まれるとおもいます。はてなブログってそのような繋がりができる面が良い部分ですよね。

 

ただ、私ははてなブログを始めた当初から言っていましたが、「はてなスターを押されたら押した側に返しにいかなければいけない、また逆に、はてなスターを押したら返しにいかねばならない」といった強迫観念みたいのを感じており、なんだか疲れることが多かったです。だったらはてなスター機能消せばいいじゃんという声が聞こえてきそうですが、あるものは使いたくなっちゃうもんです。「もったいない」ですから苦笑

 

で、そのような考えがずっとあって辞めるに至りました。あとはカスタマイズが自由とかいった理由もあります。

でも、やっぱ一番の理由は、コミュニケーションツールとしての「はてなブログ」に私があまり馴染めなかった点が強いです。

 

なぜワードプレスに?

はてなブログproにして2ヶ月ぐらい動かしていたのですが、フッター消せたり、スマホデザインいじれたり、広告消せたり、いろいろ楽しかったのですが、いかんせんproの料金が高いのなんの。いくらだっけ? 1年更新でも700円? うーん、だったら自分でサーバー借りようかなと。私はロリポップにしましたが、月あたり600円で安かった。もう一つ言えば、「自分のブログ」ってかっこいいなという気持ちもありました。

で、なぜワードプレスになったかというと、純粋にワードプレスを授業で少しいじっていたからです(対した理由じゃなくてすみませんw)。wixも使ったことがあるのですが、若干制限があったような気がしたので避けました。あと動画広告がうざかった。

 

結局……

はてなブログはてなスターの鬱陶しさが気になっており、自分のサイトってかっこいいというなんとも薄い理由からワードプレスへの移動となったわけです。

いままでブログにスターをつけてくれた皆様、読者になってくれた皆様、本当にありがとうございます。はてなブログは放置してもワードプレスで記事は書き続けていくので気になった時にでも覗いてくれればありがたいなとおもいます。

 

はてなブログでは気になっているブログも多いので、ブックマークしとかなきゃ!

ドラゴンクエストⅥの「不安」感

1995年 (ちくま新書) 速水健朗 (著)

 

 1995年は戦後から現在に続く上での転換点である。

 

 私にとって1995年といえば…と言いたいところだが残念ながら生まれていない。ただ、私が好きな「ドラゴンクエスト」からならば少し語れるだろう。1995年といえば、『ドラゴンクエストⅥ』が発売された年である。この年は、セガターンやプレイステーション、さらにはその翌年に発売されるNintendo64などによるゲームの革新期であった。そんな中、SFCは下火であったが、その中で『ドラクエⅥ』の話題性は間違いなくあった。プレイすると分かるのだが、今までの他のドラクエとは少し違った様相を呈している。物語は主人公たちが倒すべき魔王との決戦直前から描かかれ、その後、主人公が悪夢から冷めたところからゲームはスタートする。フィールドに出ると「ふわふわ」としか表現できないようなBGMに不安感を覚える。物語を進めると、悲しいエピソードの数々、夢の世界と現実の世界を行き来することによるプレイヤーの混乱、オウムを匂わせるようなしあわせの国、そして物語終盤に登場するはざまの世界、その一つ一つが今までにない暗さや不安を演出していた。このゲームのテーマは「発見」であったが、この時代の日本における「自分探し」ともリンクしていたし、それはまさに1995年そのものの社会観を感じさせる。戦後から節目のこの年…というだけではなく、立て続けに起こる事件、経済不況の自覚、携帯電話やインターネットの普及、そして、いわゆる「大きな物語」の消失による不安感が顕著に出た年に見える。

 

 本書は、1995年に起こった様々な出来事を、政治、経済、国際情勢、テクノロジー、消費・文化、事件・メディア、といった視点から確認していくものである。著者は前書きで「最低限、懐古趣味を満足させるものできるのでは」と述べているように1995年をタイムリーに過ごした人にとってはとても読みやすく、過去を振り返ることができるような本になっているのではないだろうか。しかし、1995年代には、アニメでいうなら「エヴァンゲリオン」、事件でいうなら「オウムサリン事件」、災害で言うなら「阪神淡路大震災」など、歴史的出来事の重大性を見逃せない。何かを分析をしようとする際にも度々この年代の出来事について触れる本や文献も多い。文系の学生としては読んでおいて損はない、いや読んでおくべき「1995年史」だ。


印象に残った言葉

「日本人は歴史に学ぶことが苦手である。そして何事も忘れやすい。いまの時代でもオウム事件的なものは十分起こり得るだろう」

 

1995年 (ちくま新書)

1995年 (ちくま新書)

 

キャッチアップからゆとりへ、本当にゆとり路線で大丈夫か

アクティブラーニング 学校教育の理想と現実 (講談社現代新書) 小針 誠 (著)

 

 1970年代からの学力指導要項の度重なる改訂は検討されてきたのだろうか。

 

 学習指導要項によって打ち出された主体的な学びを軸とする改革は見事に失敗の連続だったと言われる。新しい用語として「アクティブ・ラーニング」(現在は「主体的・対話的で深い学び」)を謳い始め、あたかもそれが現場の教育状況を改善してくれる万能のものだという様に提示しているが、実際のところ、それは幻想ではないのかという疑問を著者は投げかける。

 

 戦後からのキャッチアップ型教育は「負の遺産」を生み出し、政府はそれに対応するため1997年の学習指導要項の改正で「ゆとりと充実」を目指し学習内容を削減、1989年にはゆとりある生活を過ごし、主体的に学ぶ意欲を身につけてもらうことを目指した。小学校では、社会と理科を廃止し生活科を創設。その後の1999年には総合的な学習の追加と完全週五日制による授業数の削減。個性重視のゆとり路線が進んだ。しかし、「ゆとり」による「総合的な時間」と教科授業の大幅な削減によって学力の低下が進んだ。2003年にはPISAショックが起こり、加えて総合的な時間に関する教師からの反発も少なくなかった。このようなことから2008年に「生きる力」は継承しつつも「確かな学力」へ方針を転化する。つまり、知識・技能を修得する基礎学力の充実とともに、志向力・判断力・表現力などを含む自らが学ぶ意欲の両立だった。そして、現在の「アクティブ・ラーニング」による主体的に学び考える力を養おうとしているのが現在の教育改革の方針だ。
 著者はこれら一連の学習指導要項改訂が分析や検討をされずに、場当たり的なものであると批判的だ。そして、その主張を著者の前著や苅谷の文献から学力低下を根拠にしていることがよく分かる。例えば、「『お店屋さんごっこ』の悲劇」と題した節では、かなり具体的な例を出して新しい学力についていけない、いわば「教育格差」の問題を挙げている。引用されている苅谷の主張の要旨は受験地獄から短絡的に「ゆとり教育」へ移り、その結果、親や社会の階層差が反映されてしまう現状をしっかり検討するべきだということ。一方、それを踏襲する著者の主張も短絡的「ゆとり」路線を進み革新的な「アクティブ・ラーニング」という言葉で幻惑しているのではないかと提示しているのである。

 

アクティブラーニング 学校教育の理想と現実 (講談社現代新書)

アクティブラーニング 学校教育の理想と現実 (講談社現代新書)

 

血は吹き出し、人は死に。シンデレラは姉たちを憐れまない

童話ってホントは残酷―グリム童話から日本昔話まで38話 (二見文庫―二見WAi WAi文庫) 三浦 佑之 (監修)

 

 童話はなぜ今の形になったのだろうか。

 

 本書は知られざる童話をまとめたものだ。例えば、ディズニーで有名な『シンデレラ』の物語では、意地悪な姉たちはガラスの靴を履くために足の指を切り落とし、かかとを切り落とし、シンデレラの結婚式場では少しでも幸運にあやかろうとして参列するもカラスに目玉をくり抜かれてしまう。こういった普段目にしない日本昔話からグリム童話が全38種類紹介されている。
 さて、なぜこういった話が表に出なくなっていったのか。それは物語が各地に広がっていったからではないだろうか。もともとは小さな集落や町などで禁戒や教訓として広まっていたことも多い。だが次第に、その特定の地域や集落で共有していた物語に政府や教育者などの団体や人物が関わってくるようになって様々な意見が混じってくる。そのような次第で童話は無難な方向へ改革されていったのではないか。日本昔話であれば、地域によって若干話の内容が違っていることも多々あるというが、このような話が共通の子供の絵本として、教育として使用される際には問題視される。それは現代でも考えれば分かることだ。本書で紹介される村八分を恐れるあまり自分の息子のお腹を搔っ捌く父親を描く『赤いまんま』、夏の間に遊び惚けていたキリギリスにアリが皮肉を言い放ち救いの手も差し出さない『アリとキリギリス』などを教材として使用したならば、批判の的になること間違いなしである。 また、これを現代で考えてみると、SNSで炎上する問題と似ている。身内でやればいいものをわざわざ大衆の目に曝すことによって発信者とその仲間たちは批判の的とされる。だからSNSの公的な場と考え過激な投稿は慎む。翻って童話も同じような現象である。身内の人々、集落で話されていた物語が大衆の目にされされる(共通の絵本や教材にされる)ことによって無難な絵本へと変わっていったのだと私は考える。

 

 以上、なぜ残酷な童話は人々に知られなくなっていったのかを少し考えてしまった。それは本書で紹介される童話があまりにも衝撃的だったからだ。いつの日か親に読んでもらった、またディズニーで見た物語が「実は…」といった物語がたくさん詰まっている。大人になった今「本当の」童話を読んでくらくらした。だが、同時にしっくりきた。それは残酷な描写や残酷な物語により教訓や世に対する皮肉に強烈な現実感があるからである。

 

読後の一言

「不思議なことに、いつも読んでいた童話よりも印象に残るんだよね」

 

 

童話ってホントは残酷 (二見レインボー文庫)

童話ってホントは残酷 (二見レインボー文庫)

 

 

線を消して引いて、二項対立で文章を書く

大学生の論文執筆法 (ちくま新書) 石原 千秋 (著)

 

 レポートを書くことは苦しいだろうか。

 大学生になるとレポートと呼ばれる提出課題が課せられるようになる。例えば、「これからの観光資源」とか「谷崎潤一郎について」といったテーマを与えられる。その際に二項対立を意識すると本書が目指す「普通そう思われてるような常識を覆すような論を展開する」文章が書けるようになるという。例えば、先日私が取り上げた『名画で読み解く イギリス王家12の物語』を例に挙げる。イギリス王朝は残酷であり、私たち現代人とは違うという「境界」つまり、「線」が引かれていることを前提として私は書き始めた。しかし、実はイギリス王朝も現代の我々も「盛る」という部分では共通してると示すことによってその「線」を取り外した。そうすることによって「普通そう思われてるような常識を覆すような論を展開する」文章が書けるのである(書いたつもりだ)。論文においてはこの前提として引かれた「線」を消して、新たな「線」を引いて、そしてまた引くといった作業が増えてくる。

 

 本書は先の例で挙げたように、「線」を引いたり消したりして二項対立を意識し文章を書く手引きになるものだ。いくつかの例文を参照にしつつ、どこに「線」が引かれたり消されたりしているのかを解説し二項対立で読んで書けるようにコツを解説してくれる。しかし、論文においては文章の書き方だけではなく、授業で習ったことを復習しながらテーマと自分が書く内容に合わせた文献を探す技術や、効率よく文献を探すための本のマッピング作業も必要である。1部と2部に分かれており、1部では文献の検索手段や文章の基本的な法則、大学の実情(明確な判断基準を持たない教授批判など)も前フリとして書かれているのだが、それらに関しては駆け足で紹介されている。一方2部では、読者のターゲットや前提となる「線」をどこに引くのか、その「線」を引きなおすことで何が見えてくるのかが書かれており、「普通そう思われてるような常識を覆すような論を展開する」文章を目指す。

 

 私はレポートを書き始めた大学1年生の頃とゼミ論文を書き上げた後では本書の内容が全然違って見えた。自分なりに試行錯誤をして、論文の書き方を指南した本を読んでもまだ納得のいくレポートが書けないと感じたらぜひ本書を参考にしてほしいと思う。

 

印象に残った言葉

「蓮實重彥とか柄谷行人とか上野千鶴子とか三浦雅士とか加藤典洋とか吉見俊哉とか大澤真幸とか高橋哲哉とか宮台真司とか東浩紀のような名の通ったプロの批評家なら(これらの名前を1人も知らなかったら文科系の大学生としてはかなりヤバイ状況だと思う)、メディアによって文体を変える必要などない」 

 

大学生の論文執筆法 (ちくま新書)

大学生の論文執筆法 (ちくま新書)

 

クレジットカード

 
財布からいちいち小銭や札束を出さなくて良いクレジットカードってなんであんなに便利なんだろう。
 
私は家の教育方針上カードを作ることができないから、友達が「クレジットカードで」と言ってる横目で小銭を慌てながら出していることが多い。これはスマートかスマートじゃないかの差が出るので重要なポイントだ。
 
 
また、クレジットカードによって疎外感も感じる。
 
ユニクロで服を買っていると1階のレジが混雑していた。すると、「2階のセルフレジが空いています。混雑時にはこちらをご利用下さい」との店内放送が。セルフレジがあるならと、わざわぜ2階に行きバーコードを通した。そうすると今度は「クレジットカードをスキャン」してくださいとの表示が出た。いや持ってないんだけど…という思いでキョロキョロ。近くにいた店員がそんな状況を察して「この階のレジはクレジットカード専用となりまーす」と声を張り上げた。
 
なんで先に言ってくれないんだ。支払い寸前で言われても遅いんだよ。 
が、そもそもそんな悪態付くのはおかしい。なぜなら、帰り際に上を見ると「このレジはクレジットカード専用です」と天井から垂れ下がるボードが目に映った。なんて恥ずかしいんだろう。あんなにでかでかと書いてあるのに気づかなかったなんて。
 
 
そして、思う。どうしてクレジットカードを持ってるか持っていないかで対応が変わってしまうんだろう。格差か、これは。クレジットカードを持っていると商品を買うたび改札を通るたびになぜかポイントが貯まって、そのポイントで好きなものが買える。一方で我々非クレジットカード民は小銭を探しながら慌てふためいたり、改札では残高不足でゲートに阻まれる。そして、そこにはなんの特典もつかない。
一緒懸命小銭を探す時間、改札に阻まれる恥ずかしさを感じないためにも早くクレジットカードが欲しい。
 
社会人になったら絶対クレジットカードつくってドヤ顔で「クレジットで」って言うんだ。
ちなみに、苦肉の策としてLINEpayを作ってみたが、使えないと言われたのはなぜか。プリペイドだけどあれもれっきとしたクレジットカードではないのか…。
 
 
 
p.s. 868円の時に1068円を出して200円のお釣りを貰うのって快楽だよね()

私は太りたい! ただし健康的に


糖質制限の真実 (幻冬舎新書) 山田 悟 (著) 

 

 私は常々太りたいと思いながら生活をしているが、まさかダイエットの本から太る方法のヒントがもらえると思わなかった。そして、今のデブエットは危険だと感じた。

 

 私は身長173cm、体重55kgと典型的な痩せ型だ。小学生の時からスポーツをやっていて、運動するわりにはあまり食べていなかったような気がする。中学や高校の成長期にはご飯2杯以上食べる友達も多かったが、私はご飯を軽く一杯程度で済ませたり、おかずも積極的には取っていなかった。著者によると、まずカロリー制限すると身体がカロリーの消費量を落とそうと、筋肉から削り落としていくそうだ。この筋肉量が落ちるという部分を、おそらく私は無意識に行っていたのだと思う。そして、現在はできるだけ太るためにありとあらゆるものを食べて体重を増やしてるが、それではかなりまずいようだ。

 

 日本人はもともと血糖値を下げる働きのあるインスリンの分泌量が少ないらしく、実際、糖尿病患者の半数以上は肥満ではない。つまり、それだけ三大死因に繫がる糖尿病のリスクを抱えているということだ。そこで登場するのが本書の「ロカボ」であり、「糖質制限」である。先にも言った通りカロリー制限をすると体内のカロリーを維持しようと筋肉をそぎ落としていってしまう。だからと言って、なんでも食べれば良いわけではない。インスリン分泌量の少ない日本人にとって糖質の摂りすぎは危険である。食べ過ぎによる血糖値の上昇によってインスリンの分泌量が減り、結果的にさらに血糖値が上がりやすくなってしまうという悪循環から糖尿病を発症することが多い。だが、ここで「ロカボ」による糖質制限を行えば血糖値上昇を抑えてくれる。このため「ロカボ」はインスリン分泌量の少ない我々日本人には効果的な食習慣だと言える。

 

 本書は2015年に刊行されたが、現在でも「ロカボ」の有用性は認められているし、あとがきでも言っていたように徐々に広がりを見せ、人々がカロリー制限という悪夢から目を覚ますことに貢献している。痩せたいと思っている人も、太りたいと思っている人も健康的な身体になりたいことが目的だと思う。ぜひ、「ロカボ」を知って健康的に身体を変えていってほしい。

 

糖質制限の真実 日本人を救う革命的食事法ロカボのすべ て (幻冬舎新書)

糖質制限の真実 日本人を救う革命的食事法ロカボのすべ て (幻冬舎新書)

 

 

印象に残った言葉

「体にいい」という表現は、基本的には「何も効かない」